「教育現場の“言葉の壁”をなくしたい」。安定した中学教員を辞め、不安定な冒険の旅へ/若林秀樹さん(大学客員准教授。ライフシフト年齢47歳)

プロフィール

若林秀樹さん(ライフシフターNo.39)
・国立大学法人宇都宮大学国際学部、客員准教授
・E-Tra構想を主宰 (教育向け多言語システム“E-Tra”🄬は登録商標)
・みらい日本語学校事務局長

茨城県つくば市在住、56歳。23歳の頃、ミュージシャンを志していたが、生きるすべとして地元栃木県の中学校教員になる。40歳の頃、離婚して子ども2人との父子家庭生活が始まる。47歳の頃、将来安定の公立学校教員から保証無しの任期付き大学教員に転身。53歳の頃、経費の関係で大学の固定給がなくなり法的には失業状態に。そして現在56歳、顧問契約していた会社から解約され再び窮地に陥る。しかしながら、生涯を通して研究してきた「教育向け多言語システム」E-Tra(イートラ)構想が収入を生み始める。総務省をはじめ、国の研究機関などの協力も得られ、もう少しで形を成そうとしている。
http://e-tra.jp/

ミュージシャンを目指していた学生時代、生きるすべとして選んだのが中学校の教員だった

僕の大きなライフシフトは24年間続けた中学校教員(安定した公務員)を退職し、期限付き&年俸制&退職金ボーナス無しの大学特任教員(不安定な冒険)に転職したことです。その後も冒険は続き、現在の僕は、フリーの立場で日本初の「学校現場用の多言語翻訳システム(アプリ、ソフトウエア、デバイスなどの開発)」の構築に取り組んでいます。

中学〜高校は音楽活動に明け暮れ勉強もせず、高校卒業時は音楽の道しか考えていませんでした。でも大学に進学して、時間稼ぎしようというずるい考えで進学。とりあえず英文科に進学し、学費を出してもらう手前、親に目標のようなものを言っておこうと、「英語の教員になるよ」と伝え、その気はなかったものの教職課程を取りました。

大学時代も音楽ばかり。単位は落とすし消息不明説まで流れる(笑)。最初は自分で歌っていたのですが、デビュー最終審査まで通してくれた会社に「センス良いから作曲家になろうよ」と言われ、売れない作曲家の道に転向。大学は留年してしまい、それまでの音楽活動が親にバレて、ちょっと申し訳ないと教員免許を取得。地元栃木県の教員採用試験を受けてみたら、こんな不届き者の僕が教員試験に受かってしまいます。そして生活がガラリと変化し、大変な日々がスタートします。

作曲家という夢をあきらめて教員に落ち着いた僕に対する周囲の評価は概ね冷ややかでした。同じ学校で働く先輩教師からは、「もう教員辞めたら?」と言われたこともありました。そんな折、教員13年目に転機が訪れます。勤務する地域に、南米からの労働者が居住するようになり、日本語や日本の生活習慣が全くわからない子ども達が次々と編入してきたのです。それに伴い、私は近隣の中学校への異動を機に「外国人児童生徒担当教員」になりました。

その当時、「外国人児童生徒教育」は未開の分野であり、指導方法に関する規定やマニュアルなどありませんでしたが、手探りや試行錯誤が要求される仕事は僕の性分に合っていました。さらに、自分の意思と関係なく、出稼ぎという親の都合によって日本での生活を余儀なくされた子どもたちの悩みや葛藤に触れ、「彼らのために夢中で働いてみよう」決心するまでになったのです。

「外国人の子どもの教育」の研究に没頭していた時期、離婚を経験し、娘二人との父子家庭が始まります。40歳。これも転機でした。毎朝4時半に起き、子どもを起こすまで家事、必要なら弁当作り、夜は習い事の送迎から、洗い物と洗濯、土日は食事から全部、部活指導の合間を使って子どもと出かけ、保護者として学校行事、夕食以外はこなしました。上の子が高校で下の子が中学まで約5年間。人生は何でも起きる、だから、何とか生きるしかないことを学んだのです。

47歳、将来安定の公立中学校教員から保証無しの大学教員に転身

ある時、宇都宮大学の教員が「外国人の子どもの教育の研究を始めたのだけれど現場の情報が欲しい」ということで、僕の中学校を訪れました。僕も学校以外の場所で色々発信したいという欲求があったので、大学の研究を手伝いはじめました。「現場の現実+大学研究の融合」で、まだ全国にない取り組みを計画することができました。

そのうち文科省の予算を受けて大学にこの分野のプロジェクトを立ち上げることとなったのです。このプロジェクトに僕が参加するためには、中学校教員を辞めなければなりません。しかも当初の任期は3年。その先の保証はない。さすがに大学側から僕に退職して来てほしいとは言ってきませんでしたが、次の道を24年間ずっと求めていた僕は、「時」がきたのだと迷わず退職を決めました。47歳のときです。公務員47歳、しかも勤続24年で退職することは、知っている人であればどんなに無謀なことか(損するか)分かると思います。

周囲は、「あの若林が大学教員なんて信じられない」と思ったはずです。でも僕は、24歳から持っていた転職願望を温めながら、自分に最も適する形での転職を実現しただけでした。周囲の教員が知らないところで勉強し、日本の未来、世界の中の日本、そしてこれからの教育について真剣に考え、「時代の流れ」を見つめ、「時」を待ち準備しただけでした。

大学でのプロジェクトは、中学校では実現できなかったことが次々と実現でき、充実していました。当初3年間のプロジェクトでしたが、成果が出て全国的に有名な取り組みになったので、さらに3年の予算が取れて6年間このポストに就きました。しかし、成果が出たのにもかかわらず、予算の都合でプロジェクトは不本意にも終わることに。これが53歳の頃です。

残った仕事は、週1回の宇都宮大学での講義だけ。ほぼ失業状態です。ところが縁とは異なもので、ちょうどその頃、外国人児童生徒教育に関連して、茨城県のとある委員を務めていて、それが縁でつくば市の商社に顧問として関わることになりました。顧問とは言え、ビジネス経験のない僕に、「我が社の力になってもらえば」なんて、本当に天からの救済でした。

そのおかげで、僕は「教育向け多言語システム」E-Tra(イートラ)の研究に本格的に取り組むことができました。これは教育現場における外国人とのコミュニケーションを、先進的な多言語翻訳技術で支援するもの。全国初となるこの取り組みに、総務省をはじめ、国の研究機関や政治関連の方々の協力も得ながら没頭することができたのです。

2年後、顧問をしていた商社から解約の通告を受けます。55歳にして再び主収入が途絶える状況に直面するのですが、顧問が解約されると同時に、それまで収入に結びついていなかったE-Ttaの研究が、少しずつ収入を生み始めたのです。この時、ただ「不思議」と感じていた縁も、実は自分で築いている「必然」なのだと感じ始めました。

こんな事を言うと笑われてしまうかもしれませんが、僕はこれから、このままやりたいことをやって生きていけるのかも知れないと感じています。上手く言えないですが、たぶんその基礎になることをこれまでの綱渡りの中で築いてきた。そして時代の中で、自分がどの位置にいて、社会の課題の中でどの位置を担当しているかということを、漠然とではなく身をもってはっきりわかったのです。

ライフシフトは冒険。小さな自分を大切に

僕はシフト=冒険だと思っています。独立や起業をしなくても、見知らぬ路地を曲がってみるのも冒険。要はその路地に何を求めるか、何を発見できるかが大切。人が興味を示さないことも、自分が面白いと思えば冒険なのだから、そこにシフトできればそれでいい。大切なことは、人に指図は受けないと言うこと。家族の意見も含めて。(ごめんなさい)。

もしライフシフトを考えている人がいるとすれば、僕はこう言いたい。
失敗を恐れず、年齢に慌てず、人の真似をしないこと。そして、小さな自分を、大切にすること−−。