今日が人生で最後の1日だとしたら、自分ではない誰かのために在りたい。大病をきっかけに、「不妊」に向き合う人をサポートする会社を設立/黒田朋子さん(会社経営/ライフシフト年齢38歳)

プロフィール
黒田朋子さん(ライフシフターNo.44)
・株式会社ライフサカス取締役・デザイナー

東京都在住。39歳。夫との二人暮らし。

京都市立芸術大学大学院美術研究科環境デザイン専攻修士過程終了。インテリアデザイナーとして会社勤務を経て2009年QUAILS設立。フリーランスとしてレストラン、カフェ、邸宅、商業施設などの空間デザインに携わる。2011年急性骨髄性白血病を発症。抗がん剤の副作用による「不妊」と向き合う。

本質的に不妊治療当事者に寄り添ったサービスを生み出したいという思いから、2016年に株式会社ライフサカスを代表の西部沙緒里氏と共同創業。不妊治療当事者向けのスマートフォンアプリ「GoPRE」の開発と、産む・産まない・産めないにまつわる生き方や選択の多様性を紹介するストーリーメディア「UMU」の運営、がんや不妊と就労などに関する研修やワークショップの企画・運営を行っている。

株式会社ライフサカス http://lifecircus.jp
ストーリーメディア「UMU」http://umumedia.jp
不妊治療応援アプリ「GoPRE」http://www.gopre.jp

影響を受けた本:「唯脳論」養老孟司著/「幻想美術館」澁澤龍彦著/「弘法大使とその宗教」菊池寛著/「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著/「胡蝶の夢」司馬遼太郎著

がんや不妊になっても、「人生そこで終わり。お先真っ暗」じゃない

目の前に病気や不妊の人がいると、戸惑ってしまう人は多いと思います。私自身も白血病にかかり、不妊と向き合ってきた一人ですが、周囲の反応は同様でした。「飲み会には誘わない方がいいかな」「病気の話題には触れないでおこう」とこれまでとは違う距離感になる。それが優しさや気遣いによるものだからこそ、病気や不妊の当事者は、自分と相手の間にものすごく大きな河のようなものが流れていることをまざまざと見せつけられてしまう。対岸には二度と行けないんじゃないかという気持ちになります。

でも、日本人のがんの罹患率は約2人に1人、不妊は既婚カップルの5.5組に1組です。病気や不妊というのは決して稀な問題ではなく、誰の人生にも起こり得ること。であるならば、「子供を授かれない人生なんてあり得ない、病気になってしまってもうおしまいだ」とネガティブに捉えるだけでなく、何か前に進む力に変えることができないかなと私はいつも思っています。

がんや不妊になっても、「人生そこで終わり。お先真っ暗」じゃないですし、選択肢は目の前に見えているものだけじゃないと私は考えています。だから、自分で自分を生きづらくさせるようなものに縛られないで、新しい選択肢を見つけてほしい。人生を咲かせるお手伝いをしたい−−−そんな思いを込めて、同じくがんという病気を経て、不妊という問題に向かい合っていた西部沙緒里とともに2016年9月に株式会社ライフサカスを創業しました。これまでに「不妊・産む・産まない」に向き合うすべての女性たちに向けたストーリーメディア「UMU」を立ち上げ、不妊治療をサポートするアプリ「GoPRE」の開発も進めています。

抗がん剤の副作用で不妊に。手探りで行動を起こし、「産む」ことへの希望をつないだ

私自身が白血病を発症したのは、2011年5月。風邪のような症状で受診したところ、「急性骨髄性白血病」と診断され、すぐ入院しました。白血病には一般のがんのようなステージ分類はありませんが、病気の進行度をステージに置き換えると、ステージ4とでもいうべき病気が進行し切った状態でした。一刻の猶予も許されない状況の中、抗がん剤治療の同意書にサインし、無菌室での治療が始まりました。30歳で結婚と同時にインテリアデザイナーとして独立して2年目、いろいろなことが前に進みはじめた矢先でした。

白血病について知識はほとんどありませんでした。どんな病気なのか、治るのか。パソコンで調べるうちに、同意書に書き連ねられたたくさんの副作用の最後にあった、「不妊」というふた文字が「全く子どもを授かれなくなること」を意味すると知りました。同意書を渡された時に、治療や重篤な副作用については医師から説明がありましたが、不妊については詳しいことを何も聞いていなかったのです。主治医に確認してみると、自然妊娠はできないし、閉経状態にもなるとわかりました。その時に主治医が何気なく言った「でも、生きられるからいいでしょう?」という言葉に絶望を感じました。

もし本当に生きられるのだとしたら、その先の未来に子供を持つ選択肢は残したい、残せないのだろうか。あきらめる気にはなれず、卵子凍結などを行う不妊治療専門のクリニックを自力で探し出して、「治療を受けさせてほしい」と病室からメールしました。「1クール目の抗がん剤治療後の一時退院中に、すぐ来てください」とおっしゃっていただき、受診したところ、たった1回の抗がん剤治療の影響で、卵巣の予備能力を調べるAMH検査の数値がゼロになっていることがわかりました。採卵できる見込みはほとんどないということです。ところが、いくつかの幸運が重なってかろうじて1個採卵することができ、受精卵として凍結保存することができました。

受精卵凍結には身体に与えるリスクもありました。1クール目の抗がん剤治療後の一時退院は本来7日間のところを、受精卵凍結をするために主治医にお願いして21日間に延長していただいたのですが、その間にせっかく減らしたがん細胞が再び増えてしまう可能性があると言われ、実際、2クール目の治療時には数値が悪化しました。でも、行動を起こすことによって、やるだけのことをやったという思いを自分自身の中に持ちたいという気持ちが強くありました。

「産む」ことへの希望をつなげることは、当時の私にとって、生きる希望をつなげることと同じくらい大切なことでした。

闇の底から引っ張りあげてくれた、「もっと誰かの役に立ちたい」という思い

その後も1クールの抗がん治療が終わって一時退院するたびに3回、クリニックを訪ねましたが、抗がん剤治療が進めば進むほど卵巣がどんなホルモンの刺激にも反応しなくなり、採卵はかないませんでした。採卵して、受精卵として凍結できたのはたった1個だけど、イチとゼロは全然違う。この1個がある限り、将来自分が妊娠する可能性をつなげることができる−−−今でこそそう考えていますが、当時は違いました。

例え白血病が治ったとしても、自分はもう子どもを授かれない。自分ができることなんて、もう何もないんじゃないか。こんなにしんどい治療をしてまで生きている意味はあるんだろうか。そんな思いに駆られていたころ、妹が一冊の本を置いて行ってくれました。刺繍ブローチの手芸本でした。

それまでに刺繍をやったことはありませんでしたが、ずっとものを作ることを生きがいにしてきたので、すごくしっくりと来て。無菌室には持ち込んで良いものも限られていたのですが、刺繍道具は持ち込めたこともあり、毎日朝8時から夕方18時までまるで仕事のように針を動かし続けました。

緻密な作業に集中していると、病状のことを頭の中でぐるぐると考えたり、しなくてもいい心配をする時間が減りました。おまけに、一つ作品ができたらフェイスブックに載せるということをしていたら、「いいね」と言ってくださったり、「こんなのを作ってもらえないかな」とリクエストをしてくださる方までいて…。自分が作ったものによって誰かが喜んでくれたり、「ありがとう」と言ってくれることがすごくうれしくて、「病気を超えて、もっと誰かに喜んでほしい、もっと誰かの役に立ちたい」と思うようになりました。

それで、刺繍作品のブランド名を「UMU」と名づけたんです。生み出したい−−−そういう気持ちだったんですね。この「UMU」が、のちにストーリーメディアの「UMU」としてカタチを変えていきました。

生きられる限りは、このいのちを自分ではない誰かのために使いたい

6クールの抗がん剤治療を経て骨髄移植を受けて48日目に退院しましたが、GVHDと呼ばれる合併症の中で特に重篤な部類のひとつである、腸管の粘膜が剥がれ落ちるという症状が出て、すぐに再入院となりました。そこから約4ヶ月、ほとんど寝たきりの状態に。鎮痛剤のモルヒネの作用で朦朧とし、目の前で起きていることが夢なのか現実なのかわからないような感じでした。髪も眉毛もまつ毛もない、やせこけた自分が鏡の向こうにいる。これまで自分だと思っていた”私”は無くなってしまったように感じました。刺繍作品づくりをきっかけに芽生えた「もっと誰かの役に立ちたい」という希望がなかったら、乗り越えられなかったのではとあの日々を振り返って思います。

白血病の発症から本格的な退院まで525日。退院した時にあったのは、“生かされている”という思いでした。私は骨髄移植によって再び生きる時間を授かりましたが、骨髄移植というのはドナーさんに精神的にも肉体的にも大変な負担を強いるものです。それでも提供してくれるというのは無償の愛以外の何物でもなく、感謝の気持ちでいっぱいでした。私のいのちは両親からもらったものだけではなく、ドナーさんの魂によって授かったものでもある。ドナーさんが自分にしてくれたように、生きられる限りは、このいのちを自分ではない誰かのために使いたい。病を通して、自然にそう思うようになりました。

がんや不妊という共通の経験がある西部と出会ったのは、2015年の夏でした。元々彼女のご主人とは仕事を通してお付き合いがありました。西部は乳がんの治療のための手術を終えた頃で、いろいろと将来について不安を感じていた様子で、「妻の話し相手になってもらえないですか」と言われたのがきっかけです。そのころ私は寛解(一時的あるいは永続的にがん細胞が縮小または消失している状態)から3年目でようやく体調も回復し、体力・気力を取り戻しつつあるところでした。

最初はいわゆる“がん友”という感じで、お互いに治療などについての“あるある”をたくさん話し合いました。そのうちにいろいろと具体的な課題感について話をするようになり、「世の中にはがんのサポートはいっぱいあるけれど、不妊のサポートは少ないよね。これは私たちがやるべきじゃない?」と。そんな時に、西部がライフサカスの原型となるような事業アイデアを地元・群馬で開催されたビジネスコンテストに出したら、ファイナリストに選ばれ、「会社を立ち上げたい」という私たちの気持ちを後押ししてくれました。「私たちは良いチームになれると思う」と西部に伝え、会社設立に向けて動き出しました。

ビジネスを通して「不妊」というテーマにもう一度向き合うのは、私にとって、痛みを伴うものであるのも事実でした。でも、それ以上に、今、苦しんでいる人たちに自分と同じような思いをしてほしくなかったし、「子どもを授かれないということで、自分自身を否定したり、誰かのモノサシで物事を捉えて生きづらさを感じないでほしい」と伝えたい気持ちがありました。使命感のような思いでした。

強い人間なんていない。だけど、生きていくための底力というのは誰の中にもある

ライフサカスはもともと不妊治療サポートアプリ「GoPRE」を事業の主軸として設立した会社でしたが、アプリの開発と並行して、もう一つの構想であるストーリーメディアのローンチを進めました。それが「UMU」です。

「UMU」ではこれまでに約30名の方々のお話をうかがってきましたが、そのストーリーは多様です。不妊治療をしていた女性もいれば、骨髄バンクを作った女性、そして、子どもは持たないと決め、結婚もしないという男性もいる。私もインタビュアーとしてたくさんの方々にお会いしましたが、みなさん、すごいストーリーを持っていらっしゃるんですよね。「がん」とか「不妊」とかカテゴライズできない、本当に多くの葛藤や悩みの中で生きていて。みなさん、心を開いて、本来なら話さないようなことも「誰かの役に立つなら」と話してくださる。それがすごくありがたいし、お話いただいたことをきちんと切り取って、世の中に伝えたいと思っています。

病気を通して一番つらかった時期に、ふと、自分がデザインの仕事をなぜしてきたのかを考えてみたことがあったんですね。デザインって、情報を整理して、相手が本当に何を求めているのかを提案していくような作業。それってまさに新しい選択肢だったり、生き方を提案するということでもあるのではと思い至りました。そして、「それはデザインだけでなく、自分の人生も同じじゃないか」「そういう新しい生き方を、今こそ自分が自分に提案するべき時なのではないか」と感じました。

こんなふうにお話をすると、「黒田さんは本当に強いですね。もともと強いから、がんや不妊の苦しみを超えられたんですよ」と言われることがあります。でも本当に元々強い人ってこの世にいないと思っています。みんな迷って、悩んで、結果として強くなる。むしろそういう生きるための強さを、どんな人も持っていると私は考えています。

東京のような都会に住むということは、身体性を失くして生きることだと私は考えています。安心、安全、便利な生活の中では、人間本来誰もが持っている“生きる力”をたくさん使わなくても生きていける。だから、みんな自分の中にそういう力があることを忘れてしまっているのではないかと思うのです。

だけど、生きていくための底力というのは誰の中にもあって、ちゃんと必要な時にその力を発揮できるようになっていると私は信じています。だから、がんや不妊といった困難に直面しても、大丈夫。新しい選択肢は必ず見つかるし、「もし、見つからないなら、それを生み出す方法を私たちと一緒に考えてみませんか」という思いを持って、いつもご提案させていただいています。

(文・泉彩子/撮影・臼田尚史)